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武士に忠義を求めるな③ 武士道の完成

前回は、戦国武者の忠義をご紹介させていただき候。

おそらく、現代の方々が思っていない武士の姿であったかと思われ候。

では、現代の方々が考える絶対的までの主君への忠誠を果たす武士の姿=武士道は、いつ完成したのでござろうか。

某は、江戸時代のある事件が関係していると睨んでおり申す。

その事件とは、これでござる。

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元禄赤穂事件で候。
忠臣蔵と申せばわかりやすいかと存ずる。

元禄赤穂事件とは、江戸城において播州赤穂の浅野内匠頭長矩様が、高家・吉良上野介義央様に斬りかかった咎で切腹。一方の義央様は咎めなしでござった。これに異を唱える遺臣たちが、義央様を仇として邸宅に討ち入り、義央様を討った事件でござる。

しかし、ここにも戦国武士の気風が感じられ申す。

まず、赤穂浅野家遺臣の首魁・大石内蔵助殿は、討ち入り前に御家再興に奔走してござった。
これは、まず主家再興の可能性があれば、それに懸けるのが第一でござろう。
それは、己をはじめ皆の禄高を復活させられれば、大なり小なりこれまで家を守ってきた祖先の奮闘に報いることになり申す。

しかし、長矩様の弟・大学殿が連座で閉門を命じられ、御家再興は叶わぬ夢となり申した。
そこで、内蔵助殿は、先日でいわば土屋昌恒様のごとく、武士の意地を示す挙に出られたのでござろう。

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そして、この事件を幕府はうまく利用したのでござる。

詳細は不明なれど、主君のために、家臣が命をかけて仇を討った。
これは「武士の鑑」であるとして、庶民の間で英雄視されることを止めなかったのでござる。

この赤穂事件、もとはと言えば、詮議をつくさず長矩様に即日切腹を命じた幕府の、ひいては綱吉公の落ち度でござる。しかし、この事件を突き詰めれば幕府への批判につながる惧れがござった。
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そこで、幕府はこう考えたのでござろう。
赤穂浪士を英雄、武士の鑑として祭ることで、その後の武士の道徳=いかなる主君であってもその主君のために命を懸ける という図式を確立したのではないかと某は推量してござる。

ただし、祭るということは神格化が必要でござる。また、本来の反逆は斬首であるが、それは武士の処刑方法ではあり申さぬ。そこで、武士の名誉の死でもある切腹を赦すことで「武士として」死を迎えさせ、神格化したのでござろう。

この背景には、武断政治から文治政治への転換という大きな流れがござる。
戦国の遺風を廃し、儒学を基にして秩序を確立したいという幕府にとって、主君のために命を懸けて仇討ちを果たした赤穂事件を利用し、完結させたと申せよう。
これは、『御恩の保障の上で奉公がある』、という武士の根本原理の大転換を図ったのでござる。

この価値観は、現代でもブラック企業が大手を振って存在していることからまだ残っていると言えようかのう。

ちなみに、大石内蔵助殿の祖母は鳥居元忠様の娘であるというのも歴史の皮肉であったのやも知れぬ。

次回は、幕末における武士道についてお伝えさせていただこうかと存ずる。

それでは、此度は此れまでにいたそう。

by kuromusya1 | 2020-04-24 10:44 | 江戸時代